ご存知日本海海戦(対馬沖海戦)で帝国海軍連合艦隊旗艦であった「三笠」です。
太平洋戦争終戦時には荒廃しまくっており、当時の合衆国海軍 ニミッツ提督に助けてもらったという、実になんとも日本国民として情けない歴史のあるのも人口に膾炙しておりますね。
その三笠は神奈川県内の昭和の小学生には遠足の定番でした。
21世紀に入ってからは2008年と2022年に行きました。
この記事は2008年と2022年の写真を素材に書いています。
場所は地図参照。
公園に近づいてくると三笠マストに翻る大将旗が目に入ります。
門を通過すると三笠の姿が見えます。 後甲板はテントに覆われているので主砲が見えず、前部主砲は木の陰なので、遠景では意外と第一印象は戦闘艦艇に見えません。
特に歩いて10分の横須賀軍港で現代の駆逐艦や空母を見たあとだと「これが軍艦ですか?」という感想を持ってしまわれても不思議はないと思います。 が、軍艦です。
左は2008年 右は2020年。 下で紹介しますが2022年、外観の腐朽状態が進んでいます。
2008年に外観の見た目がマシだったのは2009年以降に順次放送されたNHKの「坂の上の雲」のドラマ撮影があったからなのかもしれません。
艦に近づくとこのような軍人さんが立っています。
歴代の日露戦争映画で使われた砲甲板です。
副砲は上下2段の甲板に備えられています。 大砲の脇にハンモックをぶら下げて寝起きした兵隊さん。 明治の男は強かったねぇ。
基本的に日本海軍は「近海で邀撃」戦略なので、居住性が悪かったそうです。 太平洋戦争中の戦艦霧島も兵隊さんはハンモックらしかったですし。
ちなみにハンモックの上の開口部は弾供給口。 さらにこの下が弾薬庫。
その弾薬庫で隠れ酒を飲んで船火事を出して三笠は爆発沈没しました。 強い英雄もいたが、決まりを守れない昭和な男の先駆けも居たというわけで、、、
上の写真2枚は2008年
下が2022年
主砲が狙っているのは米国第7艦隊横須賀基地
これを予防するのが日頃のメンテナンスなのですけどね。
前世紀。 日本が高度経済成長をしている頃、
「アメリカの会社は設備維持に投資しないから、機械がどんどん壊れていって生産性が落ちて、その工場を潰して新工場を建てる。アイツラは馬鹿か?」
「5S3T、TPMで維持すれば工場は高効率に維持できる。 新工場なんて要らない。」
と言って居たもんですが、すっかり20世紀のアメリカ風になってしまいました。
国の宝が維持できないのは実に情けないので、寄付については 記事のおしまいに記しました。
鉄錆はウッドデッキの張替えよりは安く付きますが、それでもペンキも安くはございません。
少しずつ再塗装しているようで下の写真画面右の後マストは再塗装完了
雨風にあうところは上記のような腐朽ぶりですが 太平洋戦争敗戦直後の惨状にくらべればまだマシ。
羅針機、テレグラフなどは日露戦争当時のものだそうです。 塗装を剥がして磨き出したんですかね。 ピカピカですね。
実は当時のものと言ったら操舵室の機器くらいが当時の物で、下甲板から上の構造物は 全てレストア品と思って良いそうです。 なにしろ、あの惨状でしたから。
長官室、ガンルームなども手が入っていました。 撮影に使ったからな?
三笠関連 歴史資料室
前甲板より艦橋を見上げると。
1900年ころには自前で作れず英国ヴィッカース社に三笠を造ってもらっていたのが1940年代には大和ですからねぇ。
東郷平八郎氏のその後は、評価の分かれるところでありますが、ともあれ、あの対馬沖海戦でバルチック艦隊を破ったおかげで、日本は独立を守れたし、朝鮮半島はアジア人の居住する地方として残りました。
偉大なる先人達に感謝ですなぁ。
ま、真に偉大なのは、補給もままならない状況でバルト海からこんな地球の果てまで大艦隊を率いてきたロ
ジェストウェンスキー中将かもしれませんね。
さて、ロシアを負かした名誉ある艦ですが、ともかく金が無い(艦体の所有者は防衛省 運営は三笠保存会)。 というわけで寄付はこちら。 今どき電子的に寄付できないって、そりゃ金が集まらなくても無理もない気もする。