七堂伽藍

茅ヶ崎市(JCC1108)に七堂伽藍跡なる石碑が立っております。
今から60年前の1957年に祖父鶴田栄太郎が色々駆けずり回って同好の士と建てたらしい。 
    
写真は茅ヶ崎市のwebから。 実家にオリジナルの写真はあるけど。。
この爺様、ともかく郷土史研究が趣味で祖母(故人)によると「発掘だの会報発行だのの費用捻出に田畑がいつの間にかになくなった。」と、かなり悪名高い。 hi
19世紀の生まれでPGJが小学校に入る前に亡くなっています。 かわいがってもらったという話は聞きますが、ほぼ記憶になく、禁じられているタバコを隠れて吸っている姿だけが記憶といえば記憶。
没後50年(2018)も経過すると、友人はむろん、弟子たちもすでに故人。 というわけで伝説の人になってきます。
以下伝説
- 郷土史の現地勉強会に講演に出かけ「今日の説明はこれでおしまい」とお辞儀して、そのまま倒れて絶命。 心筋梗塞でした。 その後の大騒動は流石に覚えております。 ハイライトなんか吸ってたから。
- 19世紀の圓蔵村(現茅ヶ崎市円蔵)の出身で、先々代は江戸時代は名主様だった分限者で土蔵などもいくつか有ったそうです。 本人は茅ヶ崎を出て横浜で学校の制服を手広くやる商売をしていたそうですが、商売は奥方(私の祖母)と番頭さんに任せて接待社長を楽しんでいたそうで、大正関東大地震と太平洋戦争の空襲を焼け残ったアルバムには内外の観光写真が残されています。
- 2000円で貸家が一軒建つ時代に横浜の遊郭(歌丸師匠の真金町かどうかは不明)でご接待で2000円を使い(当時のことだからお女郎さんも付けたんでしょうね)、奥方の逆鱗に触れたとか。 怒りついでに松坂屋百貨店で子どもたちの衣類やら自分の着物やらを云百円買い込み鬱憤を晴らしたとか(外商担当が「奥様それくらいになさったら」とついて回ったというのだから、昔の商人は良心的ですね。)
- 祖母は大層なオカチンだったが、圓蔵村の農家とは家格の違う家からのお嫁さんで爺さん達は欣喜雀躍だったらしい。 馴染みの芸者も居たようだが夫婦仲は良かったようで子供は6人。 それらが私の親世代。 
- 戦前に米相場に手を出し、はずして借金もかたに田畑を取られてしまった。 知り合いの植木屋三ツ堀さんから借金して買い戻し、借金も払い終わったところで第2次大戦終了。 
横浜で商売をしていたのが祟り、不在地主ということで田畑はあらかた小作の皆様に持って行かれポツダム地主の輩出に寄与。 というわけでマッカーサーと社会党は祖父母の不倶戴天の敵でしたね。
これ以降、祖父は仕事を前一層放り投げて郷土史研究にのめり込むようになります。
    
     写真は茅ヶ崎市役所から
 
七堂伽藍の紹介も祖父の仕事の一つ。
奈良時代の国分寺の建設よりさらに前の時代に、なぜここにこんな大きな寺が東国、地の果ての茅ヶ崎に? らしいのですが、とりあえず茅ヶ崎市役所の肝いりで最近、国の史跡になったそうで。
我が家からすると、60年前に七堂伽藍の研究で延々妨害工作をしていたらしい茅ヶ崎市が、いまさらどの顔下げて遺跡を宣伝するか? は? ですけど。 
ま、今になって地元新興の一助になっているのなら祖父も喜んでいるでしょう。 大岡祭の企画までやった器用な人でしたから。
祖父は重要文化財の仏像も発見しています。 宝生寺の善光寺式阿弥陀三尊像。 こんな良品があんな僻地にある謂れがわからんけれど良いものですね。
好きなことばかりして終わった人生ですが、真似をしたいかと言われると。。。
まっぴらごめんですhi 50歳前まではイケイケ人生だったねぇ。爺さん。 

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