酒匂川の土手をポタリングしていたら、どんど焼きをしているところに出会いました。
人の少なさに驚きです。
てっぺんのはダルマさん
河津桜が一房咲いていました。
写真を撮っていたら かなりご高齢の老人に声をかけられました。
「最近のデジカメは使い方がよくわからん。 そのレンズは何mm?」云々。
聞けば御年95歳。 いつごろからカメラ道楽をはじめたのか尋ねると「偵察機の航空写真機を見てから」とのことで、「偵察機乗りだったのか」と聞くと「単座の戦闘機。鍾馗。ビルマに居た。」。
ビルマには16機で向かったこと。 戻ってこれたのは5人だったこと。
母校の小学校の上を飛んでビルマへ向かったこと。 地上でふられる日の丸を見て涙が出たこと。
P51やグラマンと戦ったこと。
千葉県の基地にも居てB29の迎撃をしたこと。
20mm機関砲をいくら撃ってもB29は墜ちなかったこと。
24気筒の全長3mのエンジンの戦闘機に乗っていたこと。
4トンもある戦闘機で成層圏ちかくまで上がるとふわふわして、落ちるときは石を落とすように降下したこと。
高高度では4本積んだ酸素瓶が頼りだったこと。
千葉県の白浜沖に終戦の日前後に墜落して水没。 水は入ってこなかったので、このまま死ぬのかと思っていたこと。
漁師の人たちが6丁櫓の和船でやってきて、素潜りで潜って天蓋(キャノピー)のガラスを割って助けようとしたので、「水が入ってきたら溺れて苦しいから止めてくれと叫んだこと。」
それでも結局ガラスを破って、引っ張り上げられたこと。
魚臭い息で人工呼吸してゴメンよと漁師に言われたこと。
10日ほど意識不明だったこと。
温かい砂に埋められて覚醒したこと。
白浜から両国まで歩いて1ヶ月も掛かり、焼け野原の都内で米兵に殴られて血まみれになったこと。
水だけはどこでもくれたので水腹で歩いたこと。
品川のバラックに住んでいる人が血まみれの姿を見て「中尉の飛行服など着ているから殴られる」と空襲で死んだ家族の服をくれたこと。
平塚あたりも空襲で真っ平らになっていたこと。
家にたとどりついたが余りの人相の変わり方で風呂敷包みの中の軍服の名前を見るまでわかってもらえなかったこと。
戦後しばらくして白浜へお礼に出かけたら、当時の生き残りが一人いて礼が言えたこと。
かなりのお歳なので記憶の錯誤も書き換えも有るのでしょう。
24気筒の陸軍機は試作のキ64しかないので、これで戦闘に参加していたのは違うと思うのですが4トンという異常に重い機体重量は合っています。 邀撃任務についていたので「これが出てくれば」ということで記憶されているのかもしれません。
20mm機関砲ということは内地では飛燕に乗っておられたのかもしれません。 鍾馗は12mmですから。
邀撃戦闘機なのにビルマ戦線に実際に送られているので、その中のお一人なのでしょう。 但し鍾馗の派遣数は16機より少ないです。
口対口の人工呼吸は1950年代以降に一般化しているので1945年に人工呼吸が合ったかどうか?
中国戦線で戦った父が生きていたら、ご老人とだいたい似た年回り。
父の戦友の元歩兵の皆さんには幼少の頃に幾人もお会いしておりましたが、生まれてはじめて実戦経験の有る戦闘機乗りという人に会いました。
国のために戦ってくれた大先輩にお会い出来たのは久しぶりでした。
このご老人。 自転車に乗って走り去っていきました。 すごい。
で、今日思ったこと。
人間の記憶力は当てにならん。 自分のやった仕事は職務経歴書につけておきましょう。