実家の掃除をしたら出てきたこの荷物札のようなもの。 何かと思ったら競馬場の入場券でした。 伝説によるとご招待で競馬場(根岸)に出かけた若かりし頃の婆様を連れた爺様。 それなりにお楽しみになったらしいですが、婆様はご近所の婦人会の皆様に「女のくせに競馬場に行った」と噂されたそうですhi。
1934年といえば昭和9年。 盧溝橋の一発で支那事変がはじまる3年前で大陸も平穏。 東海道線丹那トンネルが開通し景気が良かったころですね。
ちなみに、この券1枚で競馬場1人分の1デイパスということになります。 これだけの枚数です。 いったい何日お通い遊ばされたのだか。。さぞスったんでしょうなぁ。
爺さんはたびたび米だ小豆だと相場に手を出して身代潰しているので博才があったとは思えませんのでね。 ただ、競馬で大損をしたという伝説が残っていないから被害は軽かったのでは?
爺様はこの手の物をやたらとしまい込んでおく傾向があり、太平洋戦争前の宿の荷物札などもごろごろしておりました。 他に骨董の類は無かったのか聞いてみたところ、戦後没落したときに米に化けたそうで。。。 かくして私が知っている爺様の遺品は発掘した土器石器、墓石の類と膨大な日記ばかりでありました。
まぁ人間一生に一度くらい景気のいい時期はありますねぇ。と爺様の一生を見てみると思います。
爺様がお得意さんを招待して芸者たいこをあげて、このころ貸家が一軒建つような金額を横浜の花町で数夜で使い果したのがやはりこの頃。
実質経営を差配していた婆様がぶち切れて、同じ金額を野澤屋(後の横浜松坂屋)で散財し、野澤屋の店員に「奥様、もうそろそろ」と言わしめたという抱腹絶倒の伝説が残っています。
東京でタクシーに乗ると、そういう華やかな経験をした運転手さんにかなりの確率で出会います。 「バブルの頃は自宅に色違いのメルセデスSLKが3台ありましたよ。 家なんかも3軒買って。。。 馬鹿でしたねぇ」という元社長さんの話には驚くやら呆れるやら。
人生、山あり谷あり。 ですよ本当に。
博打はやめましょう。