古いガラス乾板写真

横浜で聴取無線電話の許可書を取って東京放送局を聴いていた祖父のガラス乾板写真が出てきました。 

フィルムスキャナーで取り込んでみました。

いつものようにクリックすると特大サイズでご覧いただけます

後列左から二人目が爺さん 神奈川県内の何処かの寺でしょう。 撮影時期は1950年代だろうか?
さすがに皆様故人でしょうな。 
昔の人はデブがいないねぇ とXYL。  

こちらは茅ヶ崎海岸(今のJCC1108)。 沖に見える岩礁が平島で大正関東大地震で盛り上がる前はもっと小さかったはず。 また平島に防波堤が設けられたのは国土地理院の地図によると1950年代頃以前なので撮影は太平洋戦争前かもしれません。 こうもり傘を指しているご婦人方が皆和装という時代。 真ん中で笑っている少年は戦中戦後を生き残ったのでしょうか?

皆様のご先祖様が写っているかもしれません 探してみてください。

追記:4月30日

出てきた 高祖父の写真

左の老人 相模国高座郡円蔵村の江戸時代最後の名主でPGJの高祖父(母方) 右の若者がその孫=私の祖父。 人の顔は基本的に変わらないという参考例のような写真です。 顔認証が有効な理由ですね。 これは1907頃の撮影です。 老人90歳 若者20歳。

その若者が結婚して、若者の母と新妻と撮った写真がこちら

新妻だった祖母いわく「農家の家の味は出汁が効いてなくて本当に困った」そうな

詳細不明だが円蔵村をでた若夫婦は横浜市中区榎町で商売していた。 その頃に撮った家族写真。 

子どもたちは叔父と叔母。全員故人。 1915年前後と思われる。

この頃、商店主だったこの若者は横浜の繁華街で一晩で2000円(令和初期の価値で3-400万円)を散財し、ブチ切れた奥方様(PGJの祖母)が野澤屋百貨店で1日で同じだけ買い物して「奥様、もうそろそろ」と外商の人に言われたという伝説があります hi

叔母が「戦後の食糧不足のときに、あのときの散財の焼け残りが有ったから食いつなげたのよねぇ。」と申しておりました。 鶴田家の伝説。 :D 

子どもたちのおしゃれな服を見ると 金持ちだったんだろうな と思います。
私が生まれた頃はトタン張りのアバラ家でした。 栄枯盛衰。

私など祖父の生年も知らんでしたが、他所の人のほうがよっぽど知っていた。 爺さん 戦後貧乏してからも、趣味に突っ込んで遺跡を発掘して我が家は極貧。。。

ちなみに 2つ上の写真中央の老婆の若い頃が こちら

左側が若い曾祖母 明治中頃の写真と思われ

最後に一枚 誰だかわからない

誰だ?
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