伊奈半左衛門忠順


        
この厳しい顔をしたお役人様。 旧駿東郡の人くらいしか知る人の居ない伊奈半左衛門忠順です。
小田原といえば箱根山の東麓というのが現代の理解ですが富士山宝永大噴火のころは箱根山のぐるりと、丹沢山地の半分は小田原藩でした。 富士山宝永大噴火で激甚被害を受けた小田原藩ですが、小田原藩大久保氏は、さっさと富士山の裾野の駿東郡(現在の御殿場市JCC18016、裾野市JCC1821、小山町18009Cあたり)、足柄上郡の一部を亡所として幕府に返上してしまいました。
その手につけられない状態の宝永大噴火激甚災害の復旧を命じられたのが関東郡代であった、この伊那半左衛門。 歴史資料には「ほぼ何も残っていない」のですが、気象庁の藤原さんが想像を膨らませて小説にしています。
箱根山の東西に住んで周辺の地域性を知っているPGJからすると、まぁ、そうだったかもねぇ。みたいな悲惨な話が延々続く小説です。
       
宝永噴火の復旧は百年単位の時間がかかっていて各種偉人が出ていますが、駿東平野では初期対応をしたと言われている伊奈半左衛門が神様になっています。 口承伝説しか無いのですが神様です。 記録は「無い」というのは本邦官僚が都合が悪い時に使う手ですから、なにか都合が悪かったんでしょうなぁ。
 

足柄平野では大岡越前配下の田中休愚が大名士です。  
幕府の優秀な官僚は、この後も生き残って明治政府を支え今に至るわけです。
巷間評判の悪い霞が関の官僚ですが、若い官僚一人ひとりに話を聞くと理想もあるし、賢い人がすくなくありません。
なぜ束にするとダメダメになってしまうのでしょうねぇ。
一個の腐ったみかん理論 か?

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